785: 1/2@\(^o^)/ 2015/01/11(日) 11:48:19.12 ID:Cw6IluNfO.net
井上ひさし「極刑」 

人間の言語能力は神から与えられた恩寵か、それとも後天的に学ばねば身に付かぬものか。 
無駄に諍うより科学的な実験でジャッジすべき、という結論に達したムガル帝国第三代皇帝は、大勢の赤ん坊を無言で育てるという実験を行わせた。 
四年後、子供たちは獣が吠えるように泣いているだけだったという。 

「下北沢の帝王」の異名を持つ若手No.1劇団で、脚本家兼演出家の北条は今までの作風とは正反対の、 
(「客に飽きられる前に新機軸を打ち出さねば!」)
重厚な脚本を書いた。
前述の皇帝の実験から想を得たものである。
「極刑」と題された脚本は、王がその為に作らせた壮大な館の部屋1つに赤ん坊1人を、赤ん坊1人に乳母1人を、乳母がうっかりまたは故意に言葉を発した場合にそれを打ち消す言葉を発する監視人2人を置く。
だが回心した乳母+監視人が赤ん坊にこっそり言葉を教えていた事がばれ、舌抜きの極刑に処される、というものだ。

乳母「この暑さが露台の露を乾かす」
監視人A「この露台が露の上の暑さを乾かす」
監視人B「露このが上の乾かす暑さの露台」
という具合に、Aは文法は正しいが意味をなさぬ事を、Bは文法も意味もでたらめな事を言う。

監視人B役の加代は北条の大学の後輩で、北条が彼女を初めて連れてきた時、立役者の「私」は二人の様子から彼らがとっくにそういう仲だと察した。

加代は台詞を覚えられず、ストレスから体調を崩した。
そりゃそうだ、台詞を覚えるにはまず台詞の意味を理解しなければ。意味をはっきりとつかみ、頭の中に意味の骨組みを作る。
次にその骨組みに、修飾やレトリックを塗り重ねる。これが王道、他に方法はない。

786: 2/2@\(^o^)/ 2015/01/11(日) 11:50:29.45 ID:Cw6IluNfO.net
乳母「よく、言葉ではとても表現できないと偉そうに言う人がいますが、そんなことを言う人はあまり利口じゃありませんね」
監視人B「よくできないと言う表現ではとても偉そうな利口じゃありませんとそんなことをあまり言いますね」
こんな台詞を50も60も覚えられるもんじゃない。

北条は演目を旧作に差し替え、俺があいつを病気にしたようなもんだから俺が行くと色々やっかいだ、かわりに見舞いに行ってくれと「私」に頼んだ。
加代は演目の差し替えをもう知っていて、だから体調が戻ったのだろうか、茶碗酒をあおっていた。
加代は監視人Bの癖が残る口調で、酔って軽い気持ちで浮気した事がある、北条は「極刑」で復讐したのだ、女優から台詞を奪うという極刑で。と打ち明けた。
加代が泣き出したので、「私」は泣き声を唇で封じた。「私」と加代は劇団から遠ざかった。

最近の北条は「重厚な」舞台をつくって高い評価を得ている。
あの時の北条は、「喋る機械」の「私」を捨てる為に酔うとユルくなる加代の所に「私」を差し向けたのではないか。

今の「私」はファミレスの店長で、加代の賃貸マンションに転がり込んでいる。
クラブホステスの加代は客と浮気している。今朝もこの通り、朝の六時になっても帰らない。
しばらくファミレスの店長室で寝泊まりすればいい、なんだったらおれに色目を使うウェイトレスのアパートに押し掛けても、と思った時、加代が帰ってきた。

「もうごめんなさい、酒は飲みませんから二度とは。なにがなんだか酔うとわからなくなるの。見えてくるのね、みんながあなたに。ごめん許して」

監視人Bの口跡が染み着いた加代の泣き言を聞くと気の毒になり、別れる気が失せる。
こんな辛い朝がいつまで続くのか。これこそ極刑だ。



出典: 後味の悪い話 その154