お伊勢参りの翌年、梅が開き始める頃。 

山の奥にあるお稲荷様の神主さんから、お社の修繕依頼が入った。 
そう、弟弟子の一人が憑かれたあのお稲荷様の社だ。 

親方に呼ばれ、 
「まあ、おめぇにやってもらおうか。」 
と任される事になった。 


とりあえず久しぶりに様子を見に行くと、昨年の台風で結構痛んでいる。
一通り見積もって、一休みしようとお社の縁に腰を下ろすと左横に女が座っていた。 
俺が座った後から座ったのではなく、俺が座った時には既に女が座っていた。 
もちろん、俺が座る前には姿など見えなかったし、境内には俺以外の誰も居なかったはずだ。 
驚きはしたが、とりあえず気付かない風を装って直視せずに様子を見る事にした。 

俺も女も何も喋らず、ただ時間だけが経過していく。 
どれほど経っただろうか、女がつ、と立ち上がった。 

長い髪が風に揺れているのが視界の端に映る。女が俺を見下ろしているのが気配で感じられた。 

どうやってこの状況から脱するべきなのかと考え始めた時、鳥居の向こうに人影が現れ、こっちに向かって声を掛けてきた。 

「やあ、○○さん!ご苦労さん」 
このお社の神主さんだ。 
俺が一瞬あちらに気を取られた瞬間、女の気配は無くなっていた。 
ふう、と大きく息を吐き立ち上がる。 

神主さんが一人の女性を連れてこちらへやってきた。 

連れの女性は神主さんの娘さんだそうで、長い黒髪の中々の美人。 
以前、お稲荷さんの祟りの一件では交通事故で入院していたので今回が初見だった。 

しかし、彼女は父親から話を聞いていて俺の事を良く知っているようで、親しげに話し掛けられた。 
その後、本社に移動してからとりあえず見積もりを説明する。 
神主さんは前回の事で相当懲りているらしく、 
「キミに任せるからお稲荷様が満足するように仕上げてください」 
と言ってくれた。 

それでは、と失礼しようとするともう夕方だから夕食でもと引き止められ、親方に叱られますからと言うと神主さんはウチの事務所に電話して親方から 
「今日は直帰で良い」 
との許可を取り付けてしまい、結局夕食をご馳走になる事に。 
その日は娘さんが腕を振るい、とても美味しい家庭料理をご馳走になった。 
神主さんご夫婦は食後にいつの間にか俺と娘さんの二人を残して退散してしまい、娘さんと俺は二人で遅くまで話しこんでしまった。 

十一時を廻ってしまった帰り道。 
俺が山際の道を急いでいると、左手の森沿いに人が手を上げているのを見つけた。 
車でもエンコしたのかと思い、人影の前で車を止める。 
ヘッドライトに浮かび上がったその姿は、髪の長い女だった。 

瞬間、全身総毛立つ。 

人では無いものの様な気がしてそのまま通り過ぎようかと思ったが、もしホントに困っているのなら放っておく訳には行かないと思いなおして車を停めた。 
助手席側の窓を少しだけ開け、 
「どうかしましたか?」と声を掛ける。 

「ちょっと置いてけぼりにされちゃって...」ハスキーな声で女が応える。 
ああ、人間だったかと胸を撫で下ろして 
「良ければお送りしましょうか?」と聞くと 
「良いんですか?じゃあ、お言葉に甘えさせて頂きます。」 
と乗り込んできた。 

気の強そうな切れ長の瞳、つんと上を向いた形の良い鼻、少々厚めな紅い唇、きゅっと尖った顎。 
乗り込んだ女の顔を見た俺は、その美貌にちょっと驚き見つめてしまった。 

「私の顔に何か付いてます?」 
小首を傾げながら女が聞く。 
彼女の甘ったるい体臭が鼻に付く。 

普通の男ならイチコロでやられてしまうのだろうな、と考えながら 
「いや、貴女の様な美人を置いてけぼりにする男が居るなんて、と感心したんですよ」 
と平静を保ちつつ答えた。 

「まあ、お上手」唇に手を当てて、コロコロと笑いながら女が答える。 
切れ長の瞳が俺を見詰めているが、俺は運転に集中して気付かないフリをした。 

この視線、どこかで感じた覚えが有る。それも、ごく最近...? 

おっと、彼女の行き先を聞かなければと思い出し聞いてみると、なんと今辞したばかりのお稲荷様の神主さん宅だとの事。 
俺が驚くと、彼女も神主さんの娘だと言う。俺がさっきまで談笑していたのは、彼女の妹だそうだ。 
とりあえずUターンして今来た道を帰る。 

そして神主さん宅に着くと、彼女は「またお会いしましょう」とウインクして家の中へ入っていった。 
なにか、どこかに違和感を覚えながら俺は家路を急ぐ。 

しばらく走り、先ほど彼女を拾った辺りまで差し掛かるとまたも人が手を上げて立っている。 
一体今日はどうなってるんだと思いつつ車を停めてみると、そこにはなんとオオカミ様の社で会ったあの少年が立っていた。 
助手席側の窓を開けると、少年は屈んで顔を近づけて 
「努々、惑わされませぬ様...」 
と言い、助手席に何かをポトっと置き、さっと森の中に姿を消してしまった。 

俺はしばらく呆けていたが、彼が助手席に置いていったものを手に取ってみるとそれはオオカミ様のお守り。 
ハッと気が付き懐を探る。しかし、そこにはいつも身に付けている筈のオオカミ様のお守りが入っていなかった。
家に戻ってから、あの少年から貰ったお守りを開けて見る。 

中には、艶やかな一房の黒髪。 

確かに、俺のお守りだ。 
なぜ、いつの間に無くなっていたのか。 

そして、なぜあの少年が持っていたのか。 
混乱しながらも、考えを纏めて行くうちにあの時感じた違和感の正体が閃いた。 

神主さんのお子さんは、一人娘のはずだ! 
と言う事は、山際で拾った切れ長の瞳の美女はだれだ!? 

しかし、確かに神主さんの家に送り届けたし、普通に家に入って言った。 
俺は布団の中で考えながら、いつの間にか眠ってしまっていた。 

・・・俺は見たことも無い大きな神社の境内に居る。 
その広さも、建っているお社の巨大さも驚くほどだ。 
大木の根に腰を下ろし、境内を歩くたくさんの巫女や神官の姿をボーっと見つめていると、大きな鳥居を潜ってあの少年が歩いてきた。 
俺に気付く風も無くお社に近付いていく。 
すると、幾つも有る戸の一つが開いて見覚えの有る艶やかな黒髪が顔を覗かせた。 

「オオカミ様!」俺は叫んで、立ち上がろうとした。が、声も出ず、身体も動かない。 
少年がオオカミ様に話し掛けているが遠過ぎて声も聞こえない。 
なんとか動こうともがいてみるが、辛うじて手指の先が動くくらいだ。 
俺は動く指の先に全神経を集中し、動け動け動けと念じていた。 
すると、なんとか腕までが動くようになった。 
丹田に気合を集中して呼吸を錬る。 
「ふっ!」気合を入れ、一気に立ち上がると全身が辛うじて動くようになった。 
ノロノロと足を出し、オオカミ様と少年が話している方へ歩き出す。 

通り過ぎていく巫女達が不振気に俺を注視するが、お構い無しに歩みを進めた。 
果てしなく長い距離を徐々に詰めていくとようやく二人の話し声が聞き取れる程の距離まで辿り着いた。 
「・・・ありがとう。貴方には苦労を掛けますね。」 
鈴の鳴るような澄んだオオカミ様の声が聞こえる。 
俺はいつの間にか涙を流していた。 

「では、これをお渡ししておきます。」 
少年がオオカミ様に何かを手渡す。 
ああ、あれは銀の髪飾りだ。 
少年は約束を守ってくれたのだ。 
オオカミ様はそれを受け取ると、胸に抱くようにして手を交差させた。 
オオカミ様の瞳から、涙が流れるのが見えた。 

「しかし、あの方は惑わされないでしょうか?人は弱い者ゆえ...」 
少年が呟く。 

「あのひとは...強く、優しいひとです。人ゆえに、迷う事は有りますが、あの方が惑う事は有りません。」 
オオカミ様が静かに、ハッキリと答えるのを聞きながら俺の意識は闇に落ちていった。 

翌朝目を覚ますと、俺は夢の内容をもう一度反芻した。 
そして、親方に電話を入れ、直接神主さんの家へ向かう。 
俺が到着した時、ちょうど娘さんが出勤の為に玄関から出てきた所だった。 
まあ、と驚く彼女に昨晩のお礼を述べ、出勤するのを見送る。 
彼女は家の中へ俺の来訪を告げると名残惜しそうに出勤していった。 

「やあ、おはよう。今朝も早いね」神主さんが玄関に顔を出した。 
挨拶を済まし、中へとお邪魔する。 
奥さんが出してくれたお茶を頂きながらお社の事について少し相談した後、俺は意を決して昨晩のことを話した。 

「そんなバカな。ウチには一人しか娘は居ないよ。何かの間違いじゃ...」 
「いえ、確かにこちらへお送りして、玄関を開けて入っていく所まで確認しました。」 
「その時間はもう家族全員眠っていたはずだ。誰も家に入ってきた跡など無い...」 
俺は一つ、思い当たる事が有る旨を伝え、電話をお借りして事務所に連絡した。 

おかみさんにまだ現場に向かっていないはずの弟弟子の一人を呼んで貰う。 
ヤツは、例の一件でお稲荷様に取り憑かれた男だ。 
イヤな事を思い出させてすまない、と断った上であの時夢の中でオオカミ様に踏み付けられていた女の人相を聞いてみた。 
気の強そうな切れ長の瞳、カタチの良い鼻、少し厚い紅い唇、きゅっと尖った顎。 
やはり、間違いない。昨晩拾ったのは、おそらく... 

「もしかして、今度は腹いせに○○さんに祟る積りじゃあないか...?」 
神主さんが不安気に呟く。 
確かに、今現在オオカミ様は留守だ。 
しかし、あの少年も少なくとも敵では無い。 
それに、俺には伊勢神宮で手に入れた確信が有る。 

「大丈夫です。ご心配には及びません。」 
俺が力強く答えると、神主さんは安堵の表情となった。 
「そうだな、キミがそう言うなら大丈夫だな...ところで、突然話が変わるが○○さんにはお付き合いしている女性は居るのかな?」 
本当に突然の問いに俺はビックリしたが、ハッキリと答えた。 

「はい、お付き合いしているのでは有りませんが強く想っている女性が居ります。」 
「ふーむ。そうか...いや、ヘンな事を聞いた。忘れてください。」 
俺は神主さん宅を辞すと、これからやるべき事を整理しながら事務所へと向かった。 

翌朝一番でオオカミ様の社に酒を持ってお礼に行く。 
鳥居を潜り、お社に酒を奉じてお祈りをする。 
そしてそのまま稲荷様の社へ修繕に向かった。 

途中で弟弟子達と合流し、お社で荷物を下ろす。 
弟弟子達は荷物を下ろすと自分たちの割り当てられている現場へと散っていく。 

社の中へ入り、図面を見ながら大まかなイメージを創り、早速仕事へ掛かった。 
俺は仕事に夢中になると時間のたつのを忘れる事が多く、また集中力を途切れさせたくないので一人で行う現場の時には昼飯を抜くか、夕方近くなって一段落着いてから食べる事が多い。 

この日も仕事に興が乗って、気がつけばもう夕方の五時近くなり夕焼けが見え始めていた。 
ふう、と一息つくと腹がぐうと鳴る。 

この辺りで切り上げて事務所に戻るか、それとも弁当を食べてからもう一息頑張るか迷っていると突然社の扉が開いた。 

「○○さん、ご苦労様」 
入って来たのは例の美女。 

妖艶な笑みを浮かべながら俺の左横へ立つと甘ったるい体臭が鼻を突く。 
俺はオオカミ様のお守りが胸に有る事を確認したが、確かに入れておいたはずのお守りがなくなっている。 
狼狽してしまった事を隠すように平静を装いながら俺は答えた。 

「こんにちは。どうしました?」 
「うふ、貴方の仕事振りを見てみたくて。お邪魔だったかしら?」 
小首を傾げながら聞く彼女に迷惑だと言える男はほとんど居ないだろう。 

「いいえ、散らかっていますが、宜しければ見ていってください。」 
女は社の中を見廻すと、 
「まあ...とても綺麗になってるのね。いいわぁ...」 
本当に嬉しそうに満面の笑みを浮かべている。 

俺が道具を片付け、立ち上がった瞬間に女が後ろから抱き付いてきた。 
「貴方って、素敵な方ね...」 
背中に豊かな胸が押し付けられる感触が広がる。 
頭の中が熱くなり、欲望が湧き上ってくる。 
思考が停止し、振り向き様に女を抱き締めてしまう。 

「優しく、ね・・・?」 
勝ち誇ったような笑みを浮かべた女の顔が目の前にある。 
目を瞑り、紅い唇を近付けてくる。 
俺の理性は跡形も無く崩れようとしていた。 

次の瞬間、俺の脳裏に髪飾りを抱き締めながら涙を溢れさせていたオオカミ様の顔が甦った。 
熱くなった脳髄がすーっと冷え、理性があっという間に戻ってくる。 
俺は女の肩を掴むと、体から強引に引き剥がした。 

「――っ!?」 
彼女は目を開け、呆けたようにポカンとした後、夜叉の様な顔となった。 

「私に恥を掻かせるなんて...どういう積り...?」 
切れ長の眼が夕日を受けて赤く光る。その迫力に、俺は竦んでしまった。 
なんとか後ずさりしつつ扉へと近付く。 

女の顔は、既に人のそれではない。 
鼻が尖り、口からは尖った歯が覗き始めている。 
「なぜ...?そんなに想える...?此処には居ない方を...人の癖に...」 
ぶつぶつと呟きながら徐々に近付いてくる。 

俺は本能から来る恐怖に慄きながらも、オオカミ様を想い祈り始めた。 
今にも女が俺に向かって飛びかかろうとした瞬間、俺の真後ろから声が響いた。 

「その辺になさいませんか?岩倉之眷属殿」 
この声は、あの少年の声。俺はふっと安堵し、そのまま意識が遠のいてしまった。 

意識が戻った時、俺は布団の中で見覚えの無い天井を見上げていた。 
ふと横を見ると、其処には神主さんの娘さんが座っていた。 

「よかった...気が付いたのね...」 
彼女は涙ぐんでいる。 
彼女が呼ぶと、神主さんご夫婦と親方が部屋に入ってきた。 

「俺は...一体どうしたんです?」 
俺が呟くと親方が答えた。 

「夜になってもおめぇが帰ってこないんで、お社へ行ったら中でおめぇがオオカミ様のお守り握り締めてぶっ倒れてたんだ。
こりゃ以前と同じ事になっちまったかと救急車呼ぼうとしたら妙な子供が現れて、○○様は寝かしておけば心配ないと言うのでとりあえず神主さん家にお邪魔したんだ。
一体何が有った?あの子供、ただもンじゃねえな?
あと、お社から泣きながら駆け出てきた女が居たが誰なんだ?」 

矢継ぎ早に質問してくる親方に途惑いながら、俺は明日、オオカミ様の社へお礼に参らなければと考えていた。 

そして、オオカミ様の社はおそらくあの少年が主となったのだ、と漠然と感じた。